記 事
2020.02.15
日本が世界に誇る工芸品の一つ「日本刀」。
刀剣自体の歴史は古く、古墳時代には「刀」が存在していたことがわかっていますが、「日本刀」は平安時代になり出現したといわれています。
その後、鎌倉・戦国・江戸時代と時代が進む中でさまざまな技術が盛り込まれ形を変えていきました。
本記事では、日本刀の歴史を振り返りながら、日本刀の魅力について解説します。
「日本刀」が出現する平安時代以前の武器は、古墳から出土する「青銅の剣」や「鉄の剣」、「鉾(ほこ)」と呼ばれる両刃の剣に長い柄をつけた槍のようなものが使用されていました。
また、鉾を模した刀身と持ち手部分が蕨のような形状をした鉄製の「蕨手刀(わらびてとう)」という剣が多く使われていたようです。もうひとつ、「直刀」という片刃で刀身に反りのない剣も存在していました。「直刀」は平造りの物や、切刃造という鎬筋(しのぎすじ)を刃寄りに付けた造りなっており、切刃造は日本刀の前進的な存在です。代表的な切刃造の刀として、聖徳太子が所持していたとされる「七星剣(しちせいけん)」、古墳時代末期作とされる、儀仗用の宝剣として使用されていたと思われる「金銅荘環頭大刀(こんどうそうかんとうたち)」は、奈良時代の作で聖武天皇の佩刀とされる大刀、「水龍剣(すいりゅうけん)」などが現在に残っていますが、これらのほとんどは実戦に使用されていたものではなく、儀礼用など神事・祭事で使われていたもののようです。墳丘墓などの遺跡から西日本を中心に、「蕨手刀(わらびてとう)」は東日本から出土することが多いようで、古代日本に東西で文化の違いがあったことが伺われます。しかし奈良時代・平安時代になり、農地をめぐり争いが頻繁に起こるようになると、東日本の「蝦夷」と呼ばれる人たちが使用していた反りのある剣を見本に、抜刀しやすく馬上でも取り回しがよい日本刀が開発されることになります。
刀身に反りがある初期の湾刀では、両刃造の「小烏丸(こがらすまる)」が有名です。皇室の私有財産として現在でも残っていて、これが日本刀の初期の姿ではないかといわれています。
こうして11世紀に、日本刀はその原型が完成します。
出現後すぐではありますが、日本刀は以下のような制作基準があったのではないかと思われます。
日本刀の造込みのひとつ。刃と峰との中間よりやや峰側に鎬をつけた造り。
刃の反対側にあたる峰の部分が屋根のような形になっている。
刃から峰までの幅は概ね3㎝程度と狭いものが多い。
「小切先」と呼ばれ、切先が詰まって先幅が狭くなる。
また、それ以外にも区(まち:束に近い刀身)から峰側に湾曲が始まっており反りが高い。
刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っているなどの特徴があり、これらの特徴を持つ刀が豊後(大分県)から陸奥(東北地方)の広範囲で発見されていることから、制作基準や製造技術を有する単一の集団があり、そこから広がっていったのでは?…と推測することもできます。
鎌倉初期の日本刀は、平安後期の初期日本刀から姿を変えていきました。前述のとおり、初期の日本刀は、鎺金(はばきがね)のある部位から急な曲線を描く形状でしたが、この時期の物は鎺元の少し上あたりに反りの中心がくる形になっています。
そして国内における大きな争い「承久の乱」や2度にわたる元寇の影響を受け、鎌倉時代末期には作刀技術は大きく飛躍、山城(京都府)や大和(奈良県)といった当時の日本の中心地以外に備前(岡山県)・相模(神奈川県)・美濃(岐阜県)などの地域にも生産拠点が広がります。
これら5か国の刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自性が見られ、それを「山城伝」「相州伝」などと呼び、この5か国の作刀方式は「五箇伝」と総称されています。
以降、南北朝時代まで日本刀の兵器としての需要は高まり、製造技術はさらに向上していきます。
室町時代初期は大きな戦乱が収まり、比較的穏やかな時代でした。刀剣の国内需要は低下しますが「明」への貿易品として生産が続けられ、刀工の技術力は保たれました。
そして応仁の乱によって戦乱が始まると、日本刀の需要は再び高まります。それまで武士階級の持ち物であった日本刀は、新しく現れた「足軽」などの農民兵用にも作られるようになりました。その数を補うために「数打物(かずうちもの)」と呼ばれる粗悪な日本刀が大量に出回るようになりました。
戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、備前と美濃が主な生産拠点として発展しました。その他には、豊後(大分県)、加賀(石川県)、越中(富山県)、駿河(静岡県東部)などが知られており、軍需産業として拠点は全国に広がっていきました。
また、戦の方法も大規模な合戦が増えると、長時間の戦闘に耐えられるように従来の片手持ちから両手で柄を握る姿となり、身幅も広く、重ねは厚く、大きな切先の刀剣が現われ始めました。
安土・桃山時代の日本刀安土・桃山時代、豊臣家の政権下では「刀狩り」が行われ、軍需産業としての作刀数は減っていきます。しかし秀吉は、日本刀の価値を高め、土地の代わりに恩賞として家臣に刀の価値を証明する「折紙」と共に日本刀を与えるシステムを作りました。この価値証明を行っていたのが本阿弥光徳という人物になります。
本阿弥(ほんあみ)家は、初代・本阿弥妙本が室町幕府の将軍足利尊氏に仕えた時から、刀剣の研磨や手入れを行っており、刀剣鑑定に関する由緒正しき一族です。
江戸時代、260年にも及ぶ平穏な時代に入ると、「寛文新刀」と呼ばれる反りが浅い姿へと変わっていきます。これは、戦がなくなり剣術の主流が竹刀稽古中心になったためだともいわれています。また、実質的に刀を使うことがなくなったため、刀自体の生産数や刀工の数も激減していきます。
しかし、刀身ではなく鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の工芸性が発達し、日本刀は芸術品の域に達していくことになりました。京や江戸、尾張(愛知県西部)など、全国でそれぞれの流行に合わせた華やかなものが作られるようになっていきます。
江戸時代後期になると「新々刀(しんしんとう)」と呼ばれる日本刀が出現します。製鉄技術が進歩したことにより、奇麗な鉄が生産されるようになり、地鉄がよく詰んで(※)見えるのがこの刀の特徴です。
※(布地などの目が)密ですき間がなくなること
また、幕末の動乱期には再び刀の需要が増し、作刀が盛んになります。この時期は長寸の打刀の他、短刀も数多く作られ多くの作品が残されています。
1873年にオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。世界に日本人の技術や精神性を示すことができましたが、1876年には国内で廃刀令が発布。大礼服着用者・軍人・警察官以外は刀を持つことが禁止されてしまい、日本刀は急速に衰退してしまうことになります。
一方、日本軍では「軍刀」を採用。サーベル様式の拵えに刀身は日本刀という仕様が一般的になり、さらに白兵戦での有効性が再評価されると、軍刀需要で日本刀は再び求められるようになります。さらに昭和に入ると、日本軍で使用される刀は、サーベル様式から太刀拵え風をモデルにしたものが登場してきました。
太平洋戦争終結後、GHQは日本刀を武器であると見なし刀狩を行います。これにより日本刀は存続が危ぶまれる事態に陥りましたが、登録制により所有が認められることになり難を逃れました。
現在でも、刀工が少ないながらも日本刀は制作されており、教育委員会から登録証が交付された物に関しては、一般の方でも所有が許可されています。
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