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2020.09.09
「銀座で最も古い刀屋」として今から50年以上前に始まった福隆美術工芸。「刀」の看板がひときわ目を引くレトロな木造建築の店構えは、銀座のオフィスビル街にありながら「時代」を感じさせる場所として知られていました。
2019年には八丁堀に店舗を移すことになりましたが、たとえ土地が変わっても、そこで働くスタッフの「古物商」という仕事にかける思いはまったく変わりません。
二代目当主である綱取譲一(つなとり じょういち)さんに、商売を始めた経緯や、古美術品を扱う者としてのこだわりを聞きました。
――まずは、福隆美術工芸を知らないお客様に向けて、ここがどんなお店かを教えてください。
綱取:甲冑、刀装具、刀剣などの古美術品の買い取りと販売を行う店です。店で扱っている品は、細かい部品を含めると数百点にものぼります。
これらの品物は、一般のお客様がご家庭から出てきたものを売ってくださったり、あるいは「古物市場」と呼ばれるオークションの場で買いつけたりしたもの。こうして古物を扱う業者や個人のことを「古物商」といいます。
――「銀座で最も古い刀屋」とあるように、古物商としてかなり古いお店ですね。
綱取:先代である私の父が開業したのは1968年(昭和43年)ごろのこと。これは東京都公安委員会における古物商の登録では「44番目」となっています。現在、少なくとも7000件近くの業者が同委員会で古物営業の許可を受けているので、だいぶ古いと言えますね。
ただ、正確には当店は「刀の専門店」ではありません。もともと画家志望で絵の目利きに長けていた父が、兄弟弟子の作品を販売したのが店のはじまりだったのです。その後ちょうど世の中に「骨董ブーム」が訪れたこともあり、時代物の焼き物や書画、刀剣などを幅広く取り扱うように。それが当時の骨董屋の典型的なスタイルだったのでしょうね。私の子ども時代を思い出すと、家の中はつねに父が集めた古美術品であふれかえっていました。
――古美術品に囲まれて育ったことで、将来は古物商になると意識したのですか。
綱取:そんなこともありません。父はいつも私に向かって、「お前は自分の好きな道を行け」と言ってくれる人でした。だから小学生の頃は、家にある貴重な刀をまたいで歩いたりしていましたし(笑)、成長してからも「店を継ぐぞ!」という強い決意はなく、大学に通いながらなんとなく店を手伝っていたくらいでした。
そんな状況ががらりと変わったのは、私が23歳になる年のこと。父が急死してしまったのです。店を残すために、急きょ私が跡を継ぐことになりました。
――23歳の若さで突然、銀座のお店を任されたのですね。
綱取:正直言って、苦労しました。というのも、古美術品の世界には、その道で何十年も生きているような古参のプロが山ほどいます。そこに経験も人脈もない私のような若造が飛び込んでいっても、なかなか周りに認めてもらえなかったのです。それどころか、悪意ある業者に騙されたり、ニセモノをつかまされたり……。それからの20代は、苦労した記憶しかありません(笑)。
そんななかで、私はこの店を今後どうしていきたいのか、どんなやり方であれば自分らしい商売ができるのか、真剣に考えました。そして思いついたのが「専門分野を絞る」というスタイルです。
つまり、今までのように多ジャンルの古美術品を取り扱うのではなく、自分の得意な分野に絞って仕事をしていこうという試みです。その得意分野というのが、私にとっては「甲冑(かっちゅう)」でした。
――なぜ、甲冑を選んだのでしょう。
綱取:20歳を過ぎた頃から、私には古美術品の「師匠」と呼べる人がいました。それが笹間良彦(ささま よしひこ)先生で、日本の甲冑研究の第一人者です。先生の研究会に通わせてもらっているうちに、甲冑の知識が豊富な同年代の仲間と知り合うこともできて、学ぶことへの意欲がどんどん強くなりました。そういうわけで、人より知識があったというのが理由のひとつ。
もうひとつの理由は、甲冑が専門性の高い分野――言い換えれば、マイナーな分野だったからです。甲冑とは戦の際に全身を守る防具のことで、つまりとても大きくて重い。軽量なものでも25キロ程度はあり、30キロを超えるものも多いです。
刀剣などに比べると圧倒的にかさばり、コレクターも少ないため、古物商はすすんで在庫を持ちたがりません。だから新参者の私にも勝負できるチャンスがありました。当時の私は、お金はなくとも若くて足腰が丈夫だったので、甲冑の研究会ではよく「運ぶのを手伝って」と呼ばれたものです(笑)。
そうやって少しずつ品物を集めて、店で扱う品物のメインを「甲冑」に、次に刀剣の外装部品である「刀装具」、3番目に不動の人気を持つ「刀剣」と、自分なりのスタイルを固めていきました。30代になってようやく、店が軌道に乗り始めたのです。
――綱取さんは現在、「全国刀剣商業協同組合」の常務理事を務めていますね。
綱取:私が店を継いでから36年が経ちました。そのあいだに馴染みのお客様や同業者など、たくさんのいい出会いに恵まれて、仲間も増えました。
「全国刀剣商業協同組合」は全国の刀剣に関わる業者が集まったもので、現在は180数名の刀屋さんが所属しています。定期的に開催される集まりでは、同業者はもちろん、現代の刀匠たちと知り合うこともできます。
日本には今も200名ほどの現役の刀鍛冶がいて、彼らの作品も私の店に置いていますよ。現代刀は人気が高いです。
――昨年2019年には、同団体が新設した民間資格「刀剣評価鑑定士」を取得しています。刀剣を鑑定するという「目利き」のスキルは、どうやって磨いていったのですか。
綱取:とにかく数多くの刀を見て、経験を積むことですね。目利きは古物商をやっていくうえで不可欠な能力ですが、とはいっても特別なことをしているわけではありません。
たとえば、道の向こうから人が歩いてきたとき、何気なく目を向けますよね。「おや、すごく背の高い人だな」「髪の毛の色が自分と違うぞ」「顔の彫りの深さも違う」と気がついて「ああ、この人は日本人ではないようだ」とわかります。こんな風に、私たちは入ってきた情報をつねに頭の中で整理して、判断の材料にしています。
鑑定も同じです。刀剣を鞘(さや)から抜いた瞬間に、「これは反りが深いぞ」「作り込みが面白い形だ」「波紋はどうなっているのだろう」と見ていって、この刀が「五箇伝(ごかでん)」と呼ばれる5つのグループのどれにあたるか予想をつけていくのです。
※五箇伝:安土桃山時代以前、名刀の生産地として知られた5つの地域、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相州(神奈川)、美濃(岐阜)それぞれの作刀上の伝統。これらの特徴は日本刀鑑定において重要な要素とされる。
――ちなみに、お気に入りの刀や甲冑はありますか。
綱取:甲冑でいうと、たとえば海外のお客様によく売れるのは、江戸時代などに作られた芸術性の高い甲冑です。これらは上級武士の強さのシンボルとして、飾った時の装飾の立派さが何より重要視されていました。
そういった豪華な甲冑も決して嫌いではないのですが、私個人の好みとしては、室町時代などに戦で使われていたものに心惹かれますね。小札(こざね)の1枚1枚に漆(うるし)が塗られることで強度と耐水性が増し、それらが組紐(くみひも)でつなぎ合わされることで頑丈にもなる。実用性が高くて見た目にも美しく、甲冑はあくまで「着物」の一種なのだと実感できます。
甲冑というと西洋では金光り(かなびかり)が基本ですが、日本の甲冑はさまざまな色柄があって、装飾の種類もとても多い。美術工芸品としての価値が極めて高いのが特徴です。
――綱取さんの甲冑への思いが伝わってきます。
綱取:甲冑だけでなく、私はおそらくすべての「古美術品」に対して、似た感情を抱いています。この仕事をしていると日々たくさんの品物を仕入れますが、中には売れ残ってしまうものもあります。しかしどんなに在庫がたまっても、絶対に捨てたりはできないんです。
なぜなら、古美術品は過去に誰かが作ってくれたもの。そして長い時を経てここまでやって来てくれて、やがては自分の手を離れて次の人のところでずっと生きていくものだからです。私はこれを「歴史の中の預かりもの」と呼んでいます。
たとえば、パーツが足りなくて困っているお客様がいれば、うちで残っているささいなものであれば無料でいいので使ってくださいと差し上げてしまいます。時にはお客様のコレクションの修理をお手伝いすることもあります。そのせいか当店では昔から、さまざまなニーズを抱えたお客様がふらりと立ち寄ってくださいます。物を粗末にできないのは、きっと父ゆずりの、古美術商としての「本能」かもしれないですね。
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